We're Alive!

まじめにふまじめ あいどるヲタク

「馬鹿野郎!」を受け止められるのは海と夕日だけ。

最近ずっと考えている。
なぜアイドルの愚痴や悪口を書き続けるアカウント
所謂、愚痴垢ができるのか。

表のアカウントで言えないようなことを吐露する為に別アカウントを作る人が多いようだが、

ではなぜ表では言えないような言葉と分かっていながら、誰でも見れる状態にしたまま鍵をかけないのか。

ここでは日常の愚痴ではなく、アイドルに対して愚痴を吐くアカウントについて話を進めていく。

 

どうして愚痴垢について書こうと思ったかというと、SNSを活用するアイドルが増えたからだ。(プライベートでの使用は別として)公式アカウントが出来る以外にも活用が進んでいる。

数年前なら頭にも浮かばなかった。無法地帯のようなSNSにアイドルが足を踏み入れてしまった。

確かにSNSは人と人との繋がりを感じることが出来る使い方によっては素晴らしいツールだ。情報を素早く拡散するにはもってこいだろう。

時代の流れとともに変化し、挑戦し続けるアイドルという存在が、事務所が、手を出さないはずなかった。(そうだよなぁ…)

匿名SNSは始めるハードルが低く、利用者も多い。本当に、色んな人がいる。文字に起こして投稿するハードルも低い為、感情のまま名指しで誹謗中傷する人も多い。
愚痴垢を見ても「気の合わない人がいるなぁ」で済んだのかもしれない。今までは。

 

アイドル好きの友人とこの類いが話題に上がると大体「本当のファンじゃないんだよね」そんな言葉が出てきて終了する。…とは言え、若干しっくりきていなかった。

じゃあそもそも本当のファンとはなんぞや?って話にもなるし、定義なんてものはない。

その人を見ると幸せな気持ちになる。
そしていつの間にか
その人の幸せを願うようになる。

大方「ファン」とされる人が辿り着く地はここであり、きっと愚痴垢を作る人も、この場所に辿り着いたのではないかと思う。

しかしこの「幸せを願う」は
感覚の違いを理解していなければ、アンリーや愚痴垢を生むポイントにもなってしまう。

貰う愛で幸せを感じる人もいれば
与える愛で幸せと感じる人がいるように
嬉しい、悲しい、腹が立つ
感情のどれも自分と相手の基準は違う。(当たり前にも程がある)

よく見かける
「アイツ態度悪くて○○が可哀想」
という発言がいい例だ。(良くないが)

そのアイドルの態度が悪い と感じた
だから○○が可哀想 と感じた

どちらも自分自身が感じたものであり、主観的な価値観である。(主観的な価値観を持つ事が間違いという事ではない)

相手の価値観や思いを尊重…出来ているようで全く出来ていない、世界一(それは盛ったか)独りよがりな言葉こそ、この「可哀想」なのだ。

悲しそうに「見えた」のなら、寄り添う言葉を探せばいい。「見えた」だけで、匿名で個人を下げる発言をするのは自分本位にも程がある。

担当(推し)の代弁者になんて決してなれないのだから。

悲しまないでほしい。笑っていてほしい。幸せになってほしい。
だから何かしてあげたい、活動の力になりたい。と声を上げるのは極めて大切だが、ファンなら賢く方法を選ばなければならない。

選ぶことをせず、批判を繰り返すだけになった時にはもう、それこそ誰かの「ファン」では無くなってしまっているのだろう。

 

もし今、アイドルの愚痴垢を持つ人がこれを見ているとするとならば、一番初めから引っかかっているだろうというのが

「悪口」というワード。

自分が吐き出すのは悪口ではなく意見だ。
否定ではなく批判であり誹謗中傷とは全く別モノだ。と。

ここで繋がるのが
なぜアカウントに鍵をつけないのか

見てみると多くのアカウントが「改善」を求め
自分の言葉で何かが変わってくれるかもしれない、という強い願いを吐き出していた。

同じ考えの持ち主と分かち合い、
変わってほしい誰かに届いてほしい。
希望を求め、敢えて鍵をつけていないのだ。

もう我慢の限界。
どうして平和に笑ってられるんだ、
よく見ろ!これじゃダメじゃないか!
そんな叫びが聞こえてくるようだった。

 

私はやっと気づいた。

主軸から全く違う。

 

まず、アイドルに対して不満が出てこない人(Aとする)は
アイドルはこうあるべきだ、という条件がない。

・アイドル自身が表現する全てに憧れている
わけであり、自分は見守りたいだけ。
あくまでもアイドルが主軸なのだ。

 

反対に、アイドルに対して不満が出てきてしまう人(Bとする)は
こうあるべきだ、という条件が自分の中に少なからず一つはある。

・自分の想像する憧れと重なってこそアイドル
なので、そこからブレないでほしい。
自分が主軸であるからだ。

 

アイドルを画家に例えてみると分かりやすい。

好きな画家の画風が変化した場合

Aは「こんな描き方もあるのか」
「この変化もまた人生だろう」
「彼が思うまま描く事に意味がある」

Bは「好きな画風ではない、売れないな」
「ファンが喜ぶものを描いてくれれば良いのに」
「生き残れないぞ、上手い画家を見習え」

恐らくこのようになる。

 

AはBに対して思う。
なぜそんな風に心ない言葉が言えるんだ?
ちゃんとよく見たほうがいいぞ。

BはAに対して思う。
なぜそんな風に援護ばかりしてるんだ?
ちゃんとよく見たほうがいいぞ。

 

いつまで経ったってお互いに、そちら側からの絵を見ることは出来ないだろう。主軸が違うのだから。

 

書いてきた通り感覚や価値観の違いがあるのが人間であり、集まる場所がSNSだ。
わざわざコメントをして自分の考える「正」を押し付け合っても衝突しか生まれないだろうし、この先も自分を主軸とするファンがいる限りアイドルの愚痴垢が無くなることはないだろう。(結局ね…)

 

どうしても問題視した方が良いと感じる事柄があるならば、所属事務所に問い合わせだって出来る。
それもまたSNSと同様に人が読む文章であり、直接話すのと同様に人が聞く言葉だ。批判するなら根拠を明確にし、言葉を選ばなければならない。

 

人気者ほどアンチが多いと言われるこの世界で、一昔前よりSNSが発達・普及した今も尚、恐ろしいことに言論の自由を履き違える人は後を絶えない。
(一部の人が)乱暴な言葉を吐き出しても良いと思っていたであろう場所に、そうでは無い人が次々とやって来ているのだ。

変わってくれ、を続けるのではなく。考えることを続けることで変わっていくのだと思う。

SNSの新たな規制が先か、影響力のあるメディアの見直しが先か。
一番重要な発達は、人間の道徳性かもしれない。


「馬鹿野郎!」を受け止められるのは海と夕日だけ。